第1063回:国民健康保険制度を考える(その8)

地方政治新聞「民主香川」に、「全世代直撃の社会保障改悪」というタイトルで、社会保障関連の内容の連載をしています。2019年9月15日付(第1825号)に掲載した、「国民健康保険制度を考える」(その4)の後半です。

角川村保健組合は、36年4月に設立されています。角川村のホームページには以下のように記述されています。

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組合は村立診療所の中に置かれ、角川村の人々は安心して診療を受けられるようになった。国は38年7月、国民健康保健法を施行。これにより「角川村保健組合」は、国民健康保険組合に改め、同年8月1日、法律に基づく「角川村国民健康保険組合」として全国第1号の設立認可を受けた。

角川地区に建立された記念碑には、「相扶共済」の文字ととも次のような碑文が刻まれている。

「この地山形県最上郡戸沢村大字角川村は、僻地で交通の便悪く、医師のいない村として民生の上まことに困難を感じた人達が、その対策としてできたのが、角川村保険組合で、36年4月から発足した。

38年7月国民健康保険組合に改め、設立認可第1号をもって全国市町村にさきがけし、国保本来の使命である相扶共済の精神を旨として実践、現在に至ったものである。(以下、略)」

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いずれも、限られた地域の中での相互扶助の組織から始まったことがわかります。

42年の国民健康保険法の改正により、任意であったものが強制的に設立しなければならなくなり、組合員として資格のある人はすべて加入しなければならなくなりました。

小泉親彦・陸軍軍医中将(厚生大臣)は、全市町村に国保組合を設立、国保を中心とした“国民皆保険”施策を実行しました。43年度末には、市町村の約95%で国保組合が設立され、加入者数も2000万人を超えたと記録されています。

しかし、前回も触れたように、戦争が進むにつれ、「医療制度そのものが成り立たなくなり、敗戦を迎えることになります。