第1058回:国民健康保険制度を考える(その5)

地方政治新聞「民主香川」に、「全世代直撃の社会保障改悪」というタイトルで、社会保障関連の内容の連載をしています。2019年8月11日付(第1822号)に掲載した、「国民健康保険制度を考える」(その3)の前半です。

国民健康保険の戦前の歴史を振り返ってみます。

医療保険制度の始まりは、1922年の「健康保険法」です。対象は労働者で、労働争議に対応する側面と、「恤救規則」(じゅつきゅうきそく)に基づく側面があります。

「恤救規則」とは、現人神(あらひとがみ)である天皇が臣民に慈恵を与えるというもので、「労働者の権利」や「基本的人権の保障」という性格はありません。それはともかく、法律で健康を保持する制度ができたという点では、一歩前進でした。

29年に世界大恐慌がおきます。日本でも農村が疲弊し、32年から34年にかけて、「時局匡救事業」(じきょくきょうきゅうじぎょう)(※)が行われます。

内容は、景気対策を目的とする公共事業である「救農土木事業」と、「経済更生運動」に分けられます。

後者は、当時の農村の伝統とされた「隣保共助の精神」を中心とした、「農山漁村経済計画樹立実行運動」というものです。各町村に経済更生委員会が設置され(後に振興委員会)、その下部組織として、町内会、部落会、隣組、隣保班という、戦時下の国民精神総動員運動により、戦時ファシズム体制を支える機構として形成されます。

一方で軍部も兵力の維持、とりわけ健康な青年の確保を目的として、「健兵健民政策」をうたって、厚生省を設立することになります。

この頃に、国家総動員法と併せて、国民健康保険法、船員保険法、さらに戦費調達を目的とする労働者年金保険法(後に厚生年金保険法と改称)が制定されました。


※「經濟論叢」129巻6号「経済更生運動と農村経済の再編」(岡田 知弘)